昭和42年11月26日    朝の御理解



 昨日、初めてのここで信心研修会が行われました。共励殿いっぱいの集まりで、60名余り集まっておりまして。本当に様々なあの、角度からお互いの信心を、まあ研修し合う訳でございますが。とても時間が足りないようでございました。この次、25日も定例日に定めまして、これからあの、どんどん信心の研修をやる訳でございますから、皆も出席されて、そして信心のけいこと、話を聞くばかりが能ではないと、わが心からも練り出せとおっしゃるのでございますから、練り出して頂く一つヒントをそういう研修の中から頂かれたら、また別な意味で信心が広く開けて来るとこう思います。

 終わりましてから、またあの、総代さん福岡の残っておりましたが、4時の御祈念に、15,6人のこっておられましたでしょうか。そこへちょうど伊万里からたくさん参っておられました。いつも25日がお礼参拝の日でございますから、それで合同になりまして、「      」してからまた共励殿で信心の共励なりましたんです。

 12時もなりましたでしょうか、熱心にまた信心の話を、共励がございました。その中であの、竹内先生が、皆さんに私は不思議な事があると言うんですね。私、お尋ねしたい事があるんですがという訳なんです。何でしょうかち。もう御造営この方もう合楽の方達が一生懸命こうやって御用、信心の共励、また様々な教会御用の為に、こうして連日に最近はまたこの隣接教会への参拝がありましてから、もう毎日の事でございました。

 そして打ちこむ信心に・?ておられる人がだいたい、生活の方はどんな風になっとるんですかという事でした。ね、それは笑い話のような質問であると同時に、本当にどういうようなおかげを皆さんが受けておるのであろうか。それに対してどうと、こう返事をしておる訳じゃないですけれども、それでいてやはりこれは信徒会長、秋永先生をまあ筆頭にですね、高橋さんなんか、本当にどうして家の方はもうけて行きよるじゃろうかと。中心である主人がいつもおられないというので、ね。それでもやはりおかげは受けておるという事の事実がですね、まあ本当に、まあ不思議に感じられるぐらいに皆さんおかげを蒙っておられます。

 昨日は10分か15分ち言うても、お話をして、でそれを皆で検討しようというようにでしたけれども、私はやっぱり3分の2、20何名の方が発表したと言ってましたから、3分の1ですかね、という方が発表しておる訳でございますね。でこの次はまた、アイデアを変えてから色んな方法を取る訳でございましょうけれど、昨日はそうでした。ですからあの、昨日、昼発表できなかった方が何人かお話をしておられましたけどね。それも座談でございましたけれども、総代さんの久富繁雄さんがこんな事を話しておられましたね。

 前の晩帰ったのがちょうど色んな御用がございましたから、久富先生と二人で1時ぐらいまで、前の晩おかげを頂いておられました。それで明日の信心研修会には自分としては何かあの、予期せぬ事があって出席出来ないと心に思うておったところが、帰りがけに親先生があの、「繁雄さん、明日は早うからおかげ頂くじゃろう」とこう言われたので、「はい」ち言うたもんだから、まあおかげ頂かん訳にいかんから神様におすがりさせて頂いて、帰って御祈念をさせて頂いて。そして帰られて毎晩御神前に御祈念をなさるそうですが、御祈念をさせて頂きよった。

 そしたらですね、そのやはりあの、神耳ですね。心の上に響いてくることなんです。それはあの、小学校の時に習いました汽車の旅という唱歌がございました。ここは山中、今は浜、かね。今は鉄橋を渡るぞと、思う間もなくトンネルの闇を潜って広野原。もうそれがですね、もう何度もかんどもいうようにその、一つのそういうリズムがですね、神耳に響いてくる。それを最後まで頂かれたという事でした。そしてどういうような事だったのかという訳なんですね。

 それで、ご祈念を終わってから思われる事なんですね。汽車といのは合楽の汽車であろう、合楽のお徳であろう、または親先生の御信心であろうと。その例えば汽車に乗らせて頂くという事は必ずしも明るい事ばかりではない、素晴らしいおかげを頂くというだけの事ではない。場合によっては自分の義理人情を欠かなければいけないような事もある。ね、場合によっては様々な障害が例えばあの、ある事もございましょうけれどもです、ね。この汽車に乗ってさえおけば大丈夫だ、行く所に行ける、行く為にはやはりこの汽車に乗らなければなるまいと、腹が決まったという事を言っておられますね、昨夜、その前の晩に。ね、ここん所が親先生任せになったらおかげを頂くというそのところがですね、その過程においてはです、ね。やはり、場合によっては真っ暗い、真っ暗なトンネルの中を通らねばならないような事すらあるということ。

 車窓から見るとこう、次々に変わっていくそれこそ回り道路の絵のように変わっていくところのその風景という物を楽しませて頂くだけではなくてです。そういうような事もあろうけれども、この汽車に乗り遅れてはならん、この汽車に乗ってさえおけばです、行く所に行けれるんだというお知らせであったと思うて、今日は早うからおかげ頂いてある。そらあもう久富さん、その話はそれだけでも「     」やったですねと言うて皆で話した事でございました、ね。

 よし信心生活、いわゆる汽車の旅と同じであります、ね。竹内先生が皆に、皆さんお尋ねしたい事があると言うて訪ねておられる事は、そこのところじゃなかろうかと、こう思う、ね。その汽車に乗っておれば決していわば良い事ばかりじゃなかろう。場合には損する事もあろう、場合には「   」どうにもこうにも困る事もあろうけれどもです、そこんところを乗らせて頂いて一つの、まあ暗いトンネルを潜るような事もあろうけれども、結局けれども、やはりおかげは受けておるということ。しかも親先生が乗っておられ、お出られる、運転しておられるその親先生がお出でられるところの汽車に乗らせて頂いておるという事が、まあ尊いんだと。

 ね、それは期せずして竹内先生のその質問に対する答えのように私は感じたんです。だから信心の研修をするという事もそういう事も研修して行かなければならん。今日は暇だから、研修会におかげを頂こうか。いや暇じゃない、よくせきな用もあるんだけれども、ね、そこを研修して行かなければならん。いかに例えば神の用を足せば氏子ノ用は神が足してやると仰る。その事実をです、ね、体験の上に現していくというおかげ、ね。昨日の発表の中にどなたかが言うておられましたように。羽田野さんでしたね。

 先日この大祭の時に頂いたお説教の中にこれだけが残っとりますと。信心は一にも押し、二にも押し、三にも押しだと。そしてそれを具体的な話に繋いでおられたのですけれども。その中からです、ね、生き生きとした神様の働きを、なるほど腕こまねいていただけでは、いわゆる棚からぼた餅は落ちては来んのだけれども、ね、そこに精進させてさえもらえばです、そこんところに本気で取り組んでさえ行けばです、おかげを受けられる。

 ね、そういう風にして信心を鍛えて行きませんと。研修して自分の物にしていかんと。信心しよるから決してお天気の日ばっかじゃない、おかげばっかりじゃない、ね。様々なところもあるけれども、そこんところを辛抱でけんところを辛抱したり、自分の都合もあるけれども自分の都合は置いて、神様の都合の方へ心を向けていくといったようなです。そういう信心の中からいよいよ絶対の神様というか、絶対のおかげをですね頂いて行かなければならん。

 先日の親教会のお月次祭の日でした。月次祭には必ず関さんがお共されます。これなんかでも、まずまあ大体、大抵忙しい時でも置いて、最近は信心が思うように出来ませんから、本当親教会のお月次祭だけぐらいはお供させて頂きたいというのが、まあ関さんの信心であろうと、こう思うのです、ね。そこから何かをやっぱり得ておるっじゃろうと思うです、ね。

 え~、久しぶりで敏子さんの運転される自動車に乗せてもらいました。もちろんその日はお休みでもございませんでしたけれども、うちの留守番もなかったのですけれども、お母さん、自分はバスで見えらっしゃった。お母さん今日は私が送ってあげましょうと。と言うてその、一時店をちょっと閉めて、この間お客さんはありゃあせんが、というような事でその送ってみえた。ちょうどタイミングで私ももう、すぐ出るばっかりになっておりましたから送ってもらい、またそしてこちらへ善導寺まで送ってもろうて、こちらへまた送ってもらったんですけれども。

 その自動車の中ででございました。最近皆さんもご承知のように、もう本当に関さん達は親子三人、もう本当にまあ何と非常に、「ふじょうか?」ですから、神様に向けられる熱情も燃えるようなものがあるんです。その代わり時々冷めやすい事がある。もう冷めたというたらもう冷めきってしまうような事がある。そういうしばらくは続きましたですね。それでもやはりお母さんは、それでもやはりまあ、お参りをして他の信者さん方が心配されるぐらいでございました。

 関さんなもう、信心の変えらっしゃったじゃなかじゃろうか、もう止めらっしゃったじゃなかじゃろうかと心配するぐらいにその、まあ冷めきられた時もございましたけれどもです、ね。それがその、どういうところからかも知れんけれども、神様の絶対といったようなものが把握出来なかったからそうだったとこう思う。今日親子で参っておられますから、ご本人達を前にしてからのお話でございますけれども、実は先生、と言うて敏子さんが運転しながら、もう先生の顔を見ながらお話は出来んのですよと、と言うて私共二人後ろに乗っておる、運転をしながら話されるんですよ。

 実はこういうような、これが確かに御神夢と言うのでしょうか、御神夢を頂いたと言うてお話になるのをです、もう本当に椛目にお参りをしとるのが、もうそのまま御理解。
はあ敏子さん見てごらん、あなたがこがしこ最近不信心になっとるけれども、不信心者の敏子さん、あなたでも神様がこういう風にしてご守護なさっておる、こういう風にして次の信心に教導して下さろうとしておるという事を、感じじゃないですか。本当に私もその前のお月次祭におかげを頂いて、親先生のお説教を頂きながら、本当にそこのところを、はあこれはもう、最近不信心になって、心得違いをしておった事を、まあ気づいておかげを頂いて行きよるところへそういう御神夢を頂いた。

 というのはどういう御神夢かと言うとですね、あの、栗ですね。もう栗の「いが」がこう割れて、もうそれこそくりくりとしたひとつ栗が、その、お夢に頂かれたと。皆さんもご承知のように、関さん達がここへおかげを頂かれることに、それはもう本当に大変な難儀な問題を抱えての入信でしたもんね。それこそ栗の枝のように、もうイライラジガジガどうにもこうにも出来ないようなその難儀な問題でございました。

 ね、その難儀な問題からです、それがこうやって割れて、一粒いわゆるあの栗のようなおかげを頂かれたんですよね、くりくりするようなおかげを頂かれたんです。もう本当にそれはジガジガする栗の枝のような中を通り抜かせて頂いた。親子三人、共々一生懸命信心をなさって、そこんところは広大なおかげを受けて、もうこの事だけでも広大なおかげ、この事だけでも、とても信心どんおろそかにしちゃ相済まんというようなおかげを受けておるにもかかわらず、その信心を落としてしもうておった、ね。

 それだけじゃない、つぎに頂いておられるお夢がです。イカの、大きなイカのお知らせを頂いた。イカ、ね、お魚のイカ。それが何と先生、その鶏が、鶏がこう餌をついばんでおる 。その鶏をそのイカが食べておるというお夢であった。まあ本当に御理解とはもうその、本当に素晴らしい表現だと私は思うですね。イカのお知らせは皆さんがいつも頂かれるように、イカはいかんところ。そしてそれを干し上げて、いっちょだんスルメにして行くというところ。改まるという事、自分達の心、ここは改まらにゃというところですね。

 そのイカがです、しかも鶏をその食べとる。不思議なもうお夢なんです。ですからその、それもこれも御理解なんです。鶏て言うのは皆さんがあの、いつも御理解で頂かれますようにその、こんな所にえさがあるじゃろうかと言ってはわきだめのごたるとこをこうあせくり 頂かせながらです、やはり餌を頂いておられる、ね。お母さんが一生懸命、娘達が不信心になる、お参りをしにくいごたる状態に追いこまれとる。それでもやっぱり、椛目椛目、合楽合楽という思いはやはり続けておられた。そして肌を見てはお参りをしておった。

 言うならばその汚いそのはわきだめの中からそれをあせりながら信心の餌だけは頂きながら、しかもそれに卵だけは生んで行きよったという訳。そういう鶏までもですね、食べるような事を娘達がしてきたという事なんです。そげなん、例えばそげな事を言うたかどうかは知りませんよ、けども、お母さんそげん「               」。もうそげん椛目、椛目ちいうたら出来んがのと例えば言うような事はお母さんの鶏をイカが食べておるようなものだ。

 もう本当に敏子さん、ほんなこて私が変わりに行きゃお話が「      」そげなお知らせ頂くならと言うてまあ、お話をした事でございますけれども。けれども敏子さん考えてみてごらん、本当に神様がね、そこんところを、そげな風にその夜も夜中もないごとしてあの、あなたを教導しておられるという事が分かるじゃないのち言うて話した事でございました。

 これはだから敏子さん、せきさん、あなた方一家だけの事っちゃない、敏子さんだけの事じゃない。そういうようなところがお互いにあるだろうと。それこそ、もうそれこそ有り難うして、もう勿体無うして、はあ本当にぼうけたごとしてお参りをする時代があるかと思うとです、冷めきってくるとだんだん、そげん参らんでん良かろう。いや、お参りをしよる者にですら、あなた達よう日参が続くの。そげん参らんでよかろうもん。もう私はこの頃もう1週間にいっぺんばっかりした。もう月次祭だけに決めた、と言うような人達もあるという事ですやはり。

 これは関さん一家じゃない、敏子さんだけじゃない。もうなぜそれが、ならそういうような事に冷めたり、ならその熱したり冷めたりするかという事なの、ね。本当の神様の、久富繁雄さんのその言葉を借りるとです、神の絶対性。ね、神の実態という物をまだ把握してないからなのだと、ね。神様を把握という、わがよか時の信心ぐらいな事ではです、神様の実態を把握することは出来ない。こういう逆境の中にでも、こういう忙しい中にです、ね、神様の御用を先にさせてもらうというようなありかたになりゃ、本当に氏子の世は神様がさせて下さるといったような体験をです。

 いや、汽車の旅と同じ事です。ね、親先生が参って来うとしよったけん参ったから、ならすぐその場で、都合の良いという神様が、も神、氏子の用を足して下さるといったような事はないにしても、通れない中を通るような事があるにしてもです、ね、やはり行くところに到着する、行けれるというおかげを頂くという事の事実をですね、お互いの信心でしっかり把握しておかなければ、自分の思いようにならんとも神様が力がないように思うてくるのは、関さん一家じゃない敏子さんだけではない、皆がそうだということ。

 だからこれはもう素晴らしい御理解なの。これはあんただけの御理解じゃない、一家だけ、あんた達一家だけの御理解じゃない、皆がここで頂かなきゃならん御理解ばいと言うて、まあ話したり、その聞かせて頂いたりしたような訳でございましたけれどね。もうその事なんかでも、ほんとに信心の研修をするには素晴らしい、私は材料であるとこう思うのです。お互いの信心がもう緩まず、たゆまず。どんな事があってもジーっと辛抱し抜かせて頂いて、いよいよ神様の働きをです、現して行くというだけではなく、その自分の身内の中にも頂いていくところのおかげを頂かねばならんと、ね。

 竹内先生が問われるところ、「どういう風にして生活行きよりなさるですか」と、例えばよっぽど金があって暇があるじゃろうと。にわか出来る事っちゃない事を皆さんやってはやって抜けておられるが、「なんはい」の方はどうですか、ね。いわゆる家業の方はどういう風になっとるですか。いかにもお留守になっておるごたるけれども、決して神様はお留守にはしてはおられないということ、ね。おかげで、いわばなら秋永先生の所なんかはあんな立派な御普請が出けて行きよるです。

 高橋さんとこあたりでも、やはり今度は新天町の方に4階建ての堂々たるですね、おすし屋さんが計画されておるという、出来ていこうとしておるという事。ね、そこに氏子に私は、神には氏子、神が足してやると仰るようなです、私は、ような神様のお言葉をです、そのまま、こう現して行きよんなさる姿であると。ね、それが現せれるようなおかげを頂きたい。ね、途中で暗い事が起こったからと言うて、もう回り道するようなことでは、本当の信心はわからないと思うですね、どうぞ。